このとき僕は医学部の6年生。すでに誕生日を迎えた後だから25歳ということになる。カタールのドーハで1993年10月28日に行われたサッカーのワールドカップ(W杯)米国大会アジア地区最終予選で、本大会への初出場をかけて最終戦に臨んだ日本代表チームが後半ロスタイムに失点し、予選敗退に終わった。
この3連敗に関しては、優しい日本人サポーターたちが「それでもよく頑張った」と健闘を称える中、ラモス瑠偉氏がテレビで辛口の解説を繰り返したのが印象的だった。”世代交代”と、”世界との壁”
1993年『ドーハの悲劇』、1997年『ジョホールバルの歓喜』、そのいずれも中心選手で闘った三浦和良選手と北澤豪選手が本戦登録メンバーから外れ、本大会直前に起きた”世代交代”が大きな話題となった中で迎えた初のワールドカップ。
初戦アルゼンチン代表、第2戦クロアチア代表、立て続けに強豪国と対戦し、いずれも0−1と完敗。
早々にグループリーグ敗退が決定して迎えたジャマイカ代表との第3戦も、中山雅史選手が意地のゴールで一矢報いるも、1−2で敗北。
見たことのない景色での初めての挑戦は、スコア以上の差を感じる三戦全敗で、”世界との壁”を痛感する結果に終わった。
しかし、この大会をきっかけに海外移籍を実現させた中田英寿選手や、三浦知良選手の11番を引き継いだ小野伸二選手の活躍は、”世代交代”した日本サッカーの未来に希望を感じさせるものとなった。
ううむ、辛口。でも同時に、日本サッカーに対する深い愛情が感じられた。「岡田監督に見る目がない。勝ってたら逆に日本サッカーの恥」
「僕は彼らを日本サッカーの代表だとは思わない。よくやったのは相馬だけ。あとはJリーグの気分でだらだらやっていた。中学生みたいなミスをする」
「(中田は)ほとんどただの選手」
「城の笑っている姿もみたくなかった。タレントじゃないんだから」
これはよく覚えている。というのも僕はこの年の大会直前、5月に結婚したばかりだったから。当時、33歳。日本で開催された”夢の舞台”
2002年6月、日本中にサッカーが溢れていた。4年前に初めてワールドカップ出場を果たしたばかりの日本と韓国の共催大会として、”夢の舞台”が日本で開催されたのだ。
前回大会の開催地フランスから招聘されたフィリップ・トルシエ監督は、世代別代表の指揮も取ることで若手選手の成長と世代融合を図り、1999年FIFAワールドユース選手権(現・U-20ワールドカップ)では日本史上初のFIFA主催大会決勝進出、準優勝、そして2000年アジアカップでは8年ぶりの優勝を果たした。
選手個人の活躍も目覚ましく、前回大会を経験した中田英寿選手は当時世界最高峰と呼ばれていたセリエA優勝に貢献、小野伸二選手はUEFAカップ(現・UEFAヨーロッパリーグ)で欧州制覇を成し遂げた。
フランスの地で感じた”世界との壁”を超え、実績を築く二人、そして”世界2位”を経験したワールドユース組、彼らはいつしか”黄金世代”と呼ばれ、日本サッカーへの期待感はかつてないほどの高まりを見せていた。
そんな中で迎えた”夢の舞台”。
初戦ベルギー代表との試合では先制されるも、鈴木隆行選手と稲本潤一選手のゴールで逆転。しかし、その後に追い付かれ結果は2−2のドロー。惜しくもワールドカップ初勝利は逃すも、初めての勝ち点は獲得した。
そして続く第2戦ロシア代表、テレビ視聴率が日本スポーツ史上最高の66.1%を記録したこの一戦では、稲本選手が2試合連続ゴールを決めて1−0、ワールドカップ杯初勝利を飾った。
第3戦チュニジア戦では開催地の長居をホームスタジアムに持つセレッソ大阪所属の森島寛晃選手が凱旋弾を決め、中田英寿選手が追加点を奪って2−0で完勝。
決勝トーナメントでトルコ代表に0−1で敗れてしまうも、日本中の期待を背負った日本代表は母国開催となった”夢の舞台”で、初めての勝ち点、勝利、そしてグループステージ突破、ベスト16進出、たくさんの新しい景色を見せてくれた。
僕は37歳で、開業医3年目。前の年に生まれた長男が2歳になっていることになる。”史上最強”の挑戦
2002年日韓ワールドカップを経て、その”夢の舞台”に立った選手も、立てなかった選手も、”黄金世代”と呼ばれる選手の多くが海外に活躍の場を移していた。
中田英寿選手や小野伸二選手に加え、稲本潤一選手、中村俊輔選手、高原直泰選手たちの活躍によって、”世界との壁”に挑むことは”日常”となっていた。
日本代表は新監督に世界的な名手であったジーコ氏を迎え、”黄金世代”を中心とした日本代表は2004年にアジアカップを連覇、翌年には世界最速でのワールドカップ出場権を獲得、親善試合ではイングランド代表に、コンフェデレーションズカップではブラジル代表に引き分けるなど、世界の強豪国とも渡り合ってみせた。
世界を舞台に活躍することを”日常”とした選手個人の活躍に加えて、チームとしても結果を出し続けていた日本代表は当時”史上最強”とされ、日韓ワールドカップでのベスト16を超えていくことへの期待は必然的に高まっていた。
しかし、その大きな期待はドイツの地で儚く散ってしまう。
初戦オーストラリア代表を相手に中村選手のゴールで先制するも、試合終了を目前にした84分に同点ゴール、その後に立て続けに2失点を喫して1−3の逆転負け。
勝利が欲しい第2戦クロアチア代表との一戦は、川口能活選手がPKストップを決めるなど守備陣が奮闘するも、攻撃陣が決定的チャンスをものに出来ずスコアレスドロー。
最後の望みを託したブラジル代表との第3戦、前半開始早々に玉田圭司選手のゴールで先制するも、そのゴールによって本領発揮した前回王者の前に1−4の大敗。
その後、現役引退を発表する中田英寿選手が、センターサークルで仰向けに寝転ぶ姿が、夢半ばで潰えた”史上最強”の挑戦を象徴していた。
僕は41歳で開業医7年目。長男6歳、次男3歳、妻は三男を妊娠中。逆風の中で生まれた”決意”と”新星”
ワールドカップ出場権を獲得するまでは特段問題はなかった。
しかし、2010年ワールドカップイヤーに入ると一転、結果が思うように出ず、日本代表への期待は急激に萎んでしまっていた。そんな逆風の中、ワールドカップ開幕直前、日本代表はこれまで追い求めていた戦術から大幅な変更を行う。
これまで主力としてチームを率いていた選手に代わって川島永嗣選手、阿部勇樹選手がスタメンに選ばれ、ゲームキャプテンも長谷部誠選手に替わり、更には本田圭佑選手がワントップ、松井大輔選手が右サイドという練習でもほとんど試されていない形が採用された。
成績不振に加えて直前の大幅な戦術変更によって、日本代表への期待は更に萎んでみえたが、この”決意”の大幅変更が奏功する。
初戦カメルーン代表戦では松井選手のクロスから本田選手がゴールを決めて1−0で勝利。
”決意”の大幅変更が結果に繋がったことで自信を持ったチームは、第2戦オランダ代表に0−1と惜敗するも、第3戦デンマーク代表を相手に本田選手、遠藤保仁選手、岡崎慎司選手のゴールで3−1と快勝。
02年日韓大会以来、母国開催以外では初めてのグループステージ突破を果たした。
決勝トーナメントではパラグアイ代表にスコアレスドローの末、PK戦で敗北。
初のベスト8進出を、あと一歩のところで逃してしまったものの、逆風の中で生まれた”決意”によって勝ち取ったベスト16という結果と、その戦いの中で生まれた”新星”への期待、そして、それらを支えたベテランたちの存在が、次へと繋がる大きな収穫となった。
僕は45歳で、開業医11年目。息子たちは上から10歳、7歳、5歳。”夢”と”現実”
2010年大会以降、2014年サッカー王国ブラジルで開催される”夢の舞台”に挑む日本代表への期待は高まり続けていた。
4年前は”新星”としてワールドカップを闘った本田圭佑選手や長友佑都選手はじめ、かつては”谷底の世代”とまで言われた選手たちが、”日常”となった”世界との壁”を優に超えていたからだ。
本田選手はイタリアの名門ACミランで背番号10を背負い、長友選手は当時世界ナンバーワンとされたインテルでレギュラーを獲得、南アフリカの地では悔しさを味わった内田篤人選手はUEFAチャンピオンズリーグでベスト4進出に貢献、香川真司選手はブンデスリーガとプレミアリーグそれぞれで優勝を経験、その他にも多くの選手が欧州の舞台で活躍していた。
前回大会後に監督に就任したアルベルト・ザッケローニ氏のもと、アジアカップ優勝、親善試合ながらアルゼンチンやフランスなどの強豪国にも勝利するなど順調なチーム作りが進められていた。
2013年のコンフェデレーションズカップで3戦全敗を喫するも、その後もオランダやベルギーなどとの試合で結果を残したことで、チームとしても世界と闘える自信と手応えを深め、選手個人それぞれが世界最高峰の舞台で活躍していたこともあって、日本代表への期待は史上最高の高まりを見せていた。
日本代表史上最高の結果を、ベスト16を超えてベスト8へ、そして、更にその先へー。
気付けば”夢の舞台”への挑戦は当たり前となり、多くの人たちがより高みへと”夢”を見ていた。
しかし、ブラジルの地で待っていたのは厳しい”現実”だった。
初戦コートジボワール代表を相手に本田選手のゴールで幸先よく先制するも、後半に入って立て続けに失点、1−2と逆転負けを喫してしまう。
第2戦ギリシャ代表との試合では、相手に退場者が出て有利な状況になったにも関わらず、高い期待の中で躓いてしまった初戦を引きずってか攻め切れずスコアレスドロー。
グループステージ突破には勝利が絶対条件となった第3戦コロンビア代表との一戦は、先制を許しながらも前半終了間際に岡崎慎司選手の同点弾で追い付き後半に希望を繋ぐ。だが、その後半に3失点で1−4の惨敗。
”夢”への挑戦は、結局1勝も上げられないまま幕を閉じてしまった。
僕は49歳で、リタイア生活3年目。”夢”へのリベンジ、掴みかけた”新しい景色”
ブラジル大会後、監督に就任したハビエル・アギーレ氏が半年で契約を解除。
後任のヴァイッド・ハリルホジッチ氏のもと、初戦黒星スタートになり苦しみながらもワールドカップ出場権を獲得するも、開幕2ヶ月前に西野朗氏に監督交代。
6大会連続で”夢の舞台”への挑戦権を得たものの、これまでとは違った苦しみを抱きながら、4年前の雪辱を晴らす舞台へ挑むことになった。
グループステージ初戦の相手は、4年前、”夢”への挑戦に終止符を打ち”現実”を突き付けられた相手コロンビア代表。
開始早々に日本代表がPKを獲得、これを香川真司選手が決めて先制点を奪うと、その後に同点ゴールを許したものの、途中出場した本田圭佑選手のCKから大迫勇也選手が勝ち越しゴールを奪って2−1で勝利する。ワールドカップの歴史上、アジア勢が南米勢に初めて勝利したという歴史的な一勝を、4年前に悔しさを味わった選手たちが結果を出して奪ったことで、日本のボルテージは最高潮に達した。
その勢いは第2戦セネガル代表との試合にも引き継がれ、二度のリードを許す苦しい展開になりながらも、乾貴士選手と本田選手のゴールによって2−2に持ち込み勝ち点を伸ばすと、第3戦ポーランド代表との試合を0−1で落とすも、警告や退場数によるフェアプレーポイントによってグループステージ突破を果たす。
ベスト16の壁を越えて、”新しい景色”へー。
相手は当時FIFAランキング3位、グループステージも全勝で突破してきた優勝候補、ベルギー代表。
日本代表が圧倒的不利と目された一戦は、世界中が熱狂する試合となった。前半をスコアレスで折り返した後半開始早々、原口元気選手と乾選手が立て続けにゴールを奪い、日本代表が2−0とリードを奪う。
このまま行けば初のベスト8進出、そして更にその先へと、4年前に途絶えた”夢”が再び蘇った展開に日本中が熱狂した。
しかし、”現実”はまたしても残酷だった。
立て続けに2点を奪われ、同点で迎えた後半アディショナルタイム、日本代表のCKが阻まれ、チャンスから一転ピンチに転ずると、そのままカウンターを決められ失点。
2−3と逆転勝利を許し、ロシアの地での挑戦は『ロストフの14秒』によって幕を下ろされた。
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内山 直
作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。
「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。