サッカー日本代表の歩みと「自分史」を重ね合わせてみる


残念ながら日本代表はクロアチアに敗れ、史上初のベスト8進出はならなかった。
とはいえ今年のサッカーW杯は2002年、日韓共同開催だった時以来の盛り上がりだったのではなかろうか。
テレビで過去の映像も繰り返し放映され、そうそう、こんなことあったよな、と懐かしく思い起こす機会も多かった。
そして改めて驚く。日韓共同開催からもう20年もたっているとは!
さらに疑問が湧く。20年もの間、僕はいったい日々何をして過ごしてきたのだろう?
そこでサッカーW杯と自分の人生を重ね合わせる作業をしてみようと思い立った。

まず最初に記憶に上るのが、今回、因縁の地として幾度となく取り上げられてきた「ドーハの悲劇」だ。ドーハの悲劇とは、
https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87-672611

カタールのドーハで1993年10月28日に行われたサッカーのワールドカップ(W杯)米国大会アジア地区最終予選で、本大会への初出場をかけて最終戦に臨んだ日本代表チームが後半ロスタイムに失点し、予選敗退に終わった。

このとき僕は医学部の6年生。すでに誕生日を迎えた後だから25歳ということになる。
試合があった10月は卒業試験、国家試験の準備で忙しくしていたはずで、特に熱心なサッカーファンでもない僕が、W杯出場を果たしたことのない日本代表を熱心に応援していたとは考えにくい。
となると「ドーハの悲劇」を、僕はリアルタイムで知っているわけではなく、その後、何度も映像を目にするにつれ、徐々に自分も経験したような気になっていった可能性が高い。
人はよくこのような記憶のすり替えをするので、注意が必要。

さて、次は1998年フランス大会。
https://www.jfa.jp/samuraiblue/worldcup_history/1998/

”世代交代”と、”世界との壁”
1993年『ドーハの悲劇』、1997年『ジョホールバルの歓喜』、そのいずれも中心選手で闘った三浦和良選手と北澤豪選手が本戦登録メンバーから外れ、本大会直前に起きた”世代交代”が大きな話題となった中で迎えた初のワールドカップ。
初戦アルゼンチン代表、第2戦クロアチア代表、立て続けに強豪国と対戦し、いずれも0−1と完敗。
早々にグループリーグ敗退が決定して迎えたジャマイカ代表との第3戦も、中山雅史選手が意地のゴールで一矢報いるも、1−2で敗北。
見たことのない景色での初めての挑戦は、スコア以上の差を感じる三戦全敗で、”世界との壁”を痛感する結果に終わった。
しかし、この大会をきっかけに海外移籍を実現させた中田英寿選手や、三浦知良選手の11番を引き継いだ小野伸二選手の活躍は、”世代交代”した日本サッカーの未来に希望を感じさせるものとなった。

この3連敗に関しては、優しい日本人サポーターたちが「それでもよく頑張った」と健闘を称える中、ラモス瑠偉氏がテレビで辛口の解説を繰り返したのが印象的だった。
当時の解説。

「岡田監督に見る目がない。勝ってたら逆に日本サッカーの恥」
「僕は彼らを日本サッカーの代表だとは思わない。よくやったのは相馬だけ。あとはJリーグの気分でだらだらやっていた。中学生みたいなミスをする」
「(中田は)ほとんどただの選手」
「城の笑っている姿もみたくなかった。タレントじゃないんだから」

ううむ、辛口。でも同時に、日本サッカーに対する深い愛情が感じられた。
1998年となると、僕は29歳で医師5年目だったことになる。2年間研修医をやって、そのあとに大学院に入ったから、大学院生3年目という言い方もできる。当時はまだ独身。
大学院生などというと、再び学生に戻って時間的余裕がある生活を送っている印象をうけるかもしれないが、医師の大学院生活は多くの場合、過酷だ。
僕も例外ではなく、特に最初の2年間は医師としての仕事を猶予してもらえなかった。
つまり当時所属していた大学病院で、午前中は外来、午後は病棟の業務をこなし、医局で出前をとって夕食をとり、その後、午後8時ころから大学院生としての勉強や研究を始める日々だった。
土日は午前中に担当患者の回診をし、午後からが研究。
院生だからという理由で、大学病院からの給与はなし。逆に授業料を収めなければならない。
収入源は他病院での診察のアルバイト。医師のバイトは高給だから、食うに困ることはなかったが、もちろん余裕がある生活とはいえず、なかなか大変な時期だった。
しかしW杯が開催された1998年は大学院3年目。僕はここでようやく病棟業務の猶予を認めてもらえることになった。
医師としての義務は午前中の外来診療だけとなり、平日は午後から夜中まで、土日は1日中研究に使うことができるようになった。
もちろん忙しくはあったが、研究には空き時間もつきもの。友人たちと一緒に自宅でW杯を観戦し、盛り上がった記憶がある。

2002年、日韓大会。
https://www.jfa.jp/samuraiblue/worldcup_history/2002/

日本で開催された”夢の舞台”
2002年6月、日本中にサッカーが溢れていた。4年前に初めてワールドカップ出場を果たしたばかりの日本と韓国の共催大会として、”夢の舞台”が日本で開催されたのだ。
前回大会の開催地フランスから招聘されたフィリップ・トルシエ監督は、世代別代表の指揮も取ることで若手選手の成長と世代融合を図り、1999年FIFAワールドユース選手権(現・U-20ワールドカップ)では日本史上初のFIFA主催大会決勝進出、準優勝、そして2000年アジアカップでは8年ぶりの優勝を果たした。
選手個人の活躍も目覚ましく、前回大会を経験した中田英寿選手は当時世界最高峰と呼ばれていたセリエA優勝に貢献、小野伸二選手はUEFAカップ(現・UEFAヨーロッパリーグ)で欧州制覇を成し遂げた。
フランスの地で感じた”世界との壁”を超え、実績を築く二人、そして”世界2位”を経験したワールドユース組、彼らはいつしか”黄金世代”と呼ばれ、日本サッカーへの期待感はかつてないほどの高まりを見せていた。
そんな中で迎えた”夢の舞台”。
初戦ベルギー代表との試合では先制されるも、鈴木隆行選手と稲本潤一選手のゴールで逆転。しかし、その後に追い付かれ結果は2−2のドロー。惜しくもワールドカップ初勝利は逃すも、初めての勝ち点は獲得した。
そして続く第2戦ロシア代表、テレビ視聴率が日本スポーツ史上最高の66.1%を記録したこの一戦では、稲本選手が2試合連続ゴールを決めて1−0、ワールドカップ杯初勝利を飾った。
第3戦チュニジア戦では開催地の長居をホームスタジアムに持つセレッソ大阪所属の森島寛晃選手が凱旋弾を決め、中田英寿選手が追加点を奪って2−0で完勝。
決勝トーナメントでトルコ代表に0−1で敗れてしまうも、日本中の期待を背負った日本代表は母国開催となった”夢の舞台”で、初めての勝ち点、勝利、そしてグループステージ突破、ベスト16進出、たくさんの新しい景色を見せてくれた。

これはよく覚えている。というのも僕はこの年の大会直前、5月に結婚したばかりだったから。当時、33歳。
僕の地元では日本戦はなかったが、他国同士の公式戦が何試合か行われたので、外国人が集まりそうなバーに妻と顔を出し、海外サポーターと酒を酌み交わしたりもした。
仕事でも4月に医局を辞めたばかりで、フリーランス医師として外来を週6コマ、寝当直(まず起こされることがなく、ほぼ寝ているだけの当直)を週1回という、のんびりした毎日だった。
新婚、そして急に生じた時間的余裕の結果、毎晩宴会のような日々になり、体重が急増。これはまずいと生活を慌てて立て直すことになる。
そうそう、たばこをやめたのもこの頃だった。結婚したら止めると妻に約束していたためで、ヘビースモーカー(1日3箱)だった僕には本当につからったが、もちろん今はあのとき止めておいてよかったと思っている。

2006年、ドイツ大会。
https://www.jfa.jp/samuraiblue/worldcup_history/2006/

”史上最強”の挑戦
2002年日韓ワールドカップを経て、その”夢の舞台”に立った選手も、立てなかった選手も、”黄金世代”と呼ばれる選手の多くが海外に活躍の場を移していた。
中田英寿選手や小野伸二選手に加え、稲本潤一選手、中村俊輔選手、高原直泰選手たちの活躍によって、”世界との壁”に挑むことは”日常”となっていた。
日本代表は新監督に世界的な名手であったジーコ氏を迎え、”黄金世代”を中心とした日本代表は2004年にアジアカップを連覇、翌年には世界最速でのワールドカップ出場権を獲得、親善試合ではイングランド代表に、コンフェデレーションズカップではブラジル代表に引き分けるなど、世界の強豪国とも渡り合ってみせた。
世界を舞台に活躍することを”日常”とした選手個人の活躍に加えて、チームとしても結果を出し続けていた日本代表は当時”史上最強”とされ、日韓ワールドカップでのベスト16を超えていくことへの期待は必然的に高まっていた。
しかし、その大きな期待はドイツの地で儚く散ってしまう。
初戦オーストラリア代表を相手に中村選手のゴールで先制するも、試合終了を目前にした84分に同点ゴール、その後に立て続けに2失点を喫して1−3の逆転負け。
勝利が欲しい第2戦クロアチア代表との一戦は、川口能活選手がPKストップを決めるなど守備陣が奮闘するも、攻撃陣が決定的チャンスをものに出来ずスコアレスドロー。
最後の望みを託したブラジル代表との第3戦、前半開始早々に玉田圭司選手のゴールで先制するも、そのゴールによって本領発揮した前回王者の前に1−4の大敗。
その後、現役引退を発表する中田英寿選手が、センターサークルで仰向けに寝転ぶ姿が、夢半ばで潰えた”史上最強”の挑戦を象徴していた。

僕は37歳で、開業医3年目。前の年に生まれた長男が2歳になっていることになる。
この頃クリニックは完全に軌道に乗り、とにかく忙しかったが、このW杯のことはわりとよく覚えている。妻が長男にかかりっきりで、僕は逆に自分の時間があったのかもしれない。
しかし日常の記憶はかなり飛んでいる。慣れないことが多く、きつい日々だった。

2010年 南アフリカ大会
https://www.jfa.jp/samuraiblue/worldcup_history/2010/

逆風の中で生まれた”決意”と”新星”
ワールドカップ出場権を獲得するまでは特段問題はなかった。
しかし、2010年ワールドカップイヤーに入ると一転、結果が思うように出ず、日本代表への期待は急激に萎んでしまっていた。そんな逆風の中、ワールドカップ開幕直前、日本代表はこれまで追い求めていた戦術から大幅な変更を行う。
これまで主力としてチームを率いていた選手に代わって川島永嗣選手、阿部勇樹選手がスタメンに選ばれ、ゲームキャプテンも長谷部誠選手に替わり、更には本田圭佑選手がワントップ、松井大輔選手が右サイドという練習でもほとんど試されていない形が採用された。
成績不振に加えて直前の大幅な戦術変更によって、日本代表への期待は更に萎んでみえたが、この”決意”の大幅変更が奏功する。
初戦カメルーン代表戦では松井選手のクロスから本田選手がゴールを決めて1−0で勝利。
”決意”の大幅変更が結果に繋がったことで自信を持ったチームは、第2戦オランダ代表に0−1と惜敗するも、第3戦デンマーク代表を相手に本田選手、遠藤保仁選手、岡崎慎司選手のゴールで3−1と快勝。
02年日韓大会以来、母国開催以外では初めてのグループステージ突破を果たした。
決勝トーナメントではパラグアイ代表にスコアレスドローの末、PK戦で敗北。
初のベスト8進出を、あと一歩のところで逃してしまったものの、逆風の中で生まれた”決意”によって勝ち取ったベスト16という結果と、その戦いの中で生まれた”新星”への期待、そして、それらを支えたベテランたちの存在が、次へと繋がる大きな収穫となった。

僕は41歳で開業医7年目。長男6歳、次男3歳、妻は三男を妊娠中。
クリニックの患者数は増え続け、仕事と子育てでとにかく忙しかったし、かわいい盛りだったはずの子供たちの記憶もほとんどない。
そのためだろう、このW杯はほとんど記憶に残っていない。中田の不在を残念に感じた記憶がおぼろげながら残っているくらいか?
稼いでいたからまだいいとはいえ、僕の人生を振り返った時、ぽっかりと空洞のように記憶がない期間で、これぞまさに人生のロスタイムという気もする。

2014年 ブラジル大会
https://www.jfa.jp/samuraiblue/worldcup_history/2014/

”夢”と”現実”
2010年大会以降、2014年サッカー王国ブラジルで開催される”夢の舞台”に挑む日本代表への期待は高まり続けていた。
4年前は”新星”としてワールドカップを闘った本田圭佑選手や長友佑都選手はじめ、かつては”谷底の世代”とまで言われた選手たちが、”日常”となった”世界との壁”を優に超えていたからだ。
本田選手はイタリアの名門ACミランで背番号10を背負い、長友選手は当時世界ナンバーワンとされたインテルでレギュラーを獲得、南アフリカの地では悔しさを味わった内田篤人選手はUEFAチャンピオンズリーグでベスト4進出に貢献、香川真司選手はブンデスリーガとプレミアリーグそれぞれで優勝を経験、その他にも多くの選手が欧州の舞台で活躍していた。
前回大会後に監督に就任したアルベルト・ザッケローニ氏のもと、アジアカップ優勝、親善試合ながらアルゼンチンやフランスなどの強豪国にも勝利するなど順調なチーム作りが進められていた。
2013年のコンフェデレーションズカップで3戦全敗を喫するも、その後もオランダやベルギーなどとの試合で結果を残したことで、チームとしても世界と闘える自信と手応えを深め、選手個人それぞれが世界最高峰の舞台で活躍していたこともあって、日本代表への期待は史上最高の高まりを見せていた。
日本代表史上最高の結果を、ベスト16を超えてベスト8へ、そして、更にその先へー。
気付けば”夢の舞台”への挑戦は当たり前となり、多くの人たちがより高みへと”夢”を見ていた。
しかし、ブラジルの地で待っていたのは厳しい”現実”だった。
初戦コートジボワール代表を相手に本田選手のゴールで幸先よく先制するも、後半に入って立て続けに失点、1−2と逆転負けを喫してしまう。
第2戦ギリシャ代表との試合では、相手に退場者が出て有利な状況になったにも関わらず、高い期待の中で躓いてしまった初戦を引きずってか攻め切れずスコアレスドロー。
グループステージ突破には勝利が絶対条件となった第3戦コロンビア代表との一戦は、先制を許しながらも前半終了間際に岡崎慎司選手の同点弾で追い付き後半に希望を繋ぐ。だが、その後半に3失点で1−4の惨敗。
”夢”への挑戦は、結局1勝も上げられないまま幕を閉じてしまった。

僕は45歳で、開業医11年目。息子たちは上から10歳、7歳、5歳。
相変わらず仕事は忙しかったが、忙しさにも育児にも慣れ、少し精神的余裕があった気がする。
そしてこのW杯直前の時期に見たある悪夢によってアーリーリタイアを決意することになる件は、自著「幸せの確率―あなたにもできる!アーリーリタイアのすすめ」でも回顧している。
自分のことで精いっぱいだったのだろう。このW杯もほとんど記憶にない。

2018年、ロシア大会。

”夢”へのリベンジ、掴みかけた”新しい景色”
ブラジル大会後、監督に就任したハビエル・アギーレ氏が半年で契約を解除。
後任のヴァイッド・ハリルホジッチ氏のもと、初戦黒星スタートになり苦しみながらもワールドカップ出場権を獲得するも、開幕2ヶ月前に西野朗氏に監督交代。
6大会連続で”夢の舞台”への挑戦権を得たものの、これまでとは違った苦しみを抱きながら、4年前の雪辱を晴らす舞台へ挑むことになった。
グループステージ初戦の相手は、4年前、”夢”への挑戦に終止符を打ち”現実”を突き付けられた相手コロンビア代表。
開始早々に日本代表がPKを獲得、これを香川真司選手が決めて先制点を奪うと、その後に同点ゴールを許したものの、途中出場した本田圭佑選手のCKから大迫勇也選手が勝ち越しゴールを奪って2−1で勝利する。ワールドカップの歴史上、アジア勢が南米勢に初めて勝利したという歴史的な一勝を、4年前に悔しさを味わった選手たちが結果を出して奪ったことで、日本のボルテージは最高潮に達した。
その勢いは第2戦セネガル代表との試合にも引き継がれ、二度のリードを許す苦しい展開になりながらも、乾貴士選手と本田選手のゴールによって2−2に持ち込み勝ち点を伸ばすと、第3戦ポーランド代表との試合を0−1で落とすも、警告や退場数によるフェアプレーポイントによってグループステージ突破を果たす。
ベスト16の壁を越えて、”新しい景色”へー。
相手は当時FIFAランキング3位、グループステージも全勝で突破してきた優勝候補、ベルギー代表。
日本代表が圧倒的不利と目された一戦は、世界中が熱狂する試合となった。前半をスコアレスで折り返した後半開始早々、原口元気選手と乾選手が立て続けにゴールを奪い、日本代表が2−0とリードを奪う。
このまま行けば初のベスト8進出、そして更にその先へと、4年前に途絶えた”夢”が再び蘇った展開に日本中が熱狂した。
しかし、”現実”はまたしても残酷だった。
立て続けに2点を奪われ、同点で迎えた後半アディショナルタイム、日本代表のCKが阻まれ、チャンスから一転ピンチに転ずると、そのままカウンターを決められ失点。
2−3と逆転勝利を許し、ロシアの地での挑戦は『ロストフの14秒』によって幕を下ろされた。

僕は49歳で、リタイア生活3年目。
このW杯はしっかり満喫、そして熱狂することができた。もちろん今回も同様だ。
1日1日をしっかりかみしめながら生活しているから、時間はゆっくり流れている。以前のように記憶が飛ぶこともない。
収入はほとんどないから贅沢はできないが、どんな贅沢をしたって記憶が飛ぶくらい忙しければ、人生を後から振り返った時、それは単なるロスタイムにしか映らないように僕には思える。
一方で今のリタイア生活では時間がゆったりと流れていて、それはすなわち人生をより長く楽しめるであろうことを意味する。まさに、アディショナル・タイム。
人生はこうでなくちゃ、と充実した日々の喜びをかみしめている。

皆さんもこの機会に、日本代表の歩みと自身の人生を重ねてみてはいかがだろう?
過去のどの時期が、自分にとってどのような意味をもつのか整理するのに、4年という区切りは丁度いい気がする。
そして何が大切で何が不要なのか、自分にとっても意外な真実が見えてくるかもしれない。

長い記事に最後までお付き合いいただき、感謝。
ともに4年後を目指そう!



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内山 直

作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。

「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。

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