その後、キリスト教に改宗した外国人たちにより、食物タブーが揺らぎ始め、はっきりとユダヤ教と区別がつくようになっていったのだそうだ。”p57~
キリスト教は31歳くらいのイエスという男がローマ式の重罪人用の十字架刑で死んでから始まったものだ。
ではイエスは何をしたのか。とりわけだいそれたことをしたわけではない。パレスチナで病人を癒して廻り、ユダヤ人社会の底辺にいる人たちと親しくした。また、当時のユダヤ教の律法学者たちの言動にたてついた。
こういう態度に対して、当時のユダヤ教のお偉いさんたちは「不埒で不信心どころか神に対して冒瀆的で、なおかつ犯罪的だ」と怒り狂った。
(中略)
そのあげく、イェルサレムでの「ローマ式十字架」による死刑の執行である。
(中略)
こうしてイエスが死んでから、生前にイエスと親しかった人々が「彼は本当に神の子だったのではないか。ユダヤ教の伝承で長い間言い伝えられてきた救世主(キリスト)、自分たちの国を創建して救ってくれる人ではないか」と思い始め、そこからキリスト教が生まれたわけだ。
だからキリスト教とは、救世主を待ち望む下層のユダヤ教徒の切なる思いから生まれた宗教だと大雑把に言うことができる。しかし、彼らは別に自分たちで新しい宗教をつくったとはゆめにも思ってはいなかった。
自分たちはなおユダヤ教徒であり、そのユダヤ教の中に一筋の希望を見出したくらいの感じだった。だから、彼らは依然とユダヤ教的生活をし、ユダヤ教的に考え、ユダヤ教の食物タブーを守っていた。”
“だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。“
“人を裁くな。
あなががたも裁かれないようにするためである。“
日本人の感覚とは少しずれているように感じるあたりが、僕としては逆に興味深い。“高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う。”
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内山 直
作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。
「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。