肌色という色名は自文化中心主義であり、それがすべての肌の色を表現しているという思い違いにつながる……だろうか?


昨日の記事では「バンドエイド」が色の異なる5種類の絆創膏を公表した事例から、肌色論争について書いた。
その後、そういえば随分前に、肌色に関するエッセイを読んだことがあったなと思い出した。
本棚を探したら、あった。高島俊男著「お言葉ですが・・・」(文春文庫)の60ページ。
1995年と記されているから、今からちょうど四半世紀前に書かれたことになる。

当時、肌色の名称は人種差別につながらないかという疑問の声が教育現場から出され、文具メーカーに色名変更を求める動きがあった。
その動きについて辛辣な批判が展開されている。
以下は著書からの引用。

“(前略)京都のある小学校がこのセーシェル(内山注;アフリカ大陸から1300 kmほど離れたインド洋の島国)の小学校と図画交流をしている。
へえ、今や小学校も国際化しているんですねえ。それもずいぶん遠い所と。
そこでこの京都の小学校の、山田という女の校長先生がセーシェルの小学校へ出かけて行って、日本製のクレヨンを使って図画の授業をした。その際、「『はだいろ』を取ってください」と指示したのが、「スキンカラー」と直訳された。
「それまで楽しく画用紙に向かっていた子どもたちが一瞬、とまどったよう。人権学習にも力を注いできたが、一番身近な所で見逃していた」と思った校長先生は、帰国後「『はだいろ』の名称を変えてほしい」と文具メーカーに求めた、――というのが話のあらましである。
セーシェルの子供というのがどんな皮膚の色なのかも書いてないが、多分黒いんだろうね(内山注;アフリカのネイティブもいるが、大部分がイギリス、スリランカ人らとの混血)。学校の授業は英語で行われているらしい。
当方「はだいろ」もセーシェルも知らなかったんだから口はばったいことは言えないけど、記事を読んで、何だか妙な話だと思いましたねえ。
だいたい通訳がドジだよ。
英語ではペールオレンジ、と記事にある。ならばそう訳せばいいじゃないか。「スキンカラー」は「皮膚の色」であって、それは人種によってそれこそ色々なんだから、それじゃ「はだいろ」の訳にならないじゃないの。
校長先生も間が抜けているよねえ。(中略)通訳が「スキンカラー」と訳し、子どもたちがキョトンとしたら、「ああ、この色のことよ」とクレヨンを示し、ついでに「日本の子供はね、こんな色の顔してるのよ、おもしろいね、アッハッハ」と言えば、子供たちもアッハッハと笑って、それだけのことだ。“

たしかに通訳はドジだと思う。
しかし肌色を英語でなんというか知らなかったので、僕も口はばったいことは言えない。昨日書いた「ペールオレンジ」は以前から正式な英語なのね。
僕も授業の通訳をすることがあるので、その立場から言わせてもらえれば、そんなのは一々訳さなくていいのだ。
下手に単語を探すくらいなら、該当するクレヨンを上げてみせて、”This one!” と言えば済む話なのに。
閑話休題。高島氏のエッセイを続ける。

“しかし最も奇々怪々なのは、この校長先生の心の動く方角である。
なんで急に人権が出てくるんだろう。
(中略)
思うに、人種差別はクレヨンにあるのでも色名にあるのでもない。校長先生の心の中にあるんだね。(中略)「はだいろ」という色名をつけるのは、不幸にしてその色の皮膚にめぐまれなかったセーシェルの子供たちに対する人種差別である、――と多分そういう筋道なのであろう。
そこで断乎文具メーカーに色名変更を求める、という次第だが、変更を要するのはクレヨンじゃなくて、校長先生のその意識だろうとわたしは思います。
しかしまた、そんなけったいな要求に賛成する人がいるんですねえ。
京都大学教育学部の助教授で前平という人が、「自文化中心主義の典型例。自分たちの世界を中心に物事を見て、結果的にすべての肌の色を表現しているという思い違いになる。改めていかないといけない」とのたもうている。
(中略)
「結果的にすべての肌の色を表現しているという思い違いになる」なんて、誰がそんな思い違いをしますかいな。“

ここで僕は大笑い。
確かに。誰がそんな思い違いをするものか。
京大の前平氏に、僕からはこう反論したい。
「学問だけしてきた人の典型例。自分の発想を中心に物事を見て、結果的にそれが世界の真理だとの思い違いになる。改めていかないといけない」
正直に言って、初めてこのエッセイを読んだ四半世紀前には、著者である高島氏の考えに全面的に賛同した。やれやれ、またしても「言葉狩り」かよ、と辟易とする思いもあった。
それに登場する校長先生に通訳、京都大学の助教授は、今読んでもおっちょこちょいだと思う(新型コロナでご活躍のM先生といい、京都大学の准教授にはオッチョコチョイが多いのかな?)。
しかし、その後実際にクレヨンでの呼称が改められたこと、そして僕自身、
「肌色という名称は今まで通りでいいか?」
と問われると、どうも違和感があるというのは昨日書いた通りだ。
日本の多民族化は今後も進んでいくことだろう。
僕らはぬるま湯から少しずつ目覚めなければならないタイミングにいるのかもしれない。

著者の高島俊男氏は1937年生まれ。
東京大学経済学部を卒業し銀行に5年勤めた後に辞め、大学院人文科学研究科中国文学科に入ったという変わり種だ。
『週刊文春』誌上で1995年5月から2006年8月まで11年にわたって「言葉の語源や、本来の正しい使い方、などについて」のエッセイ「お言葉ですが…」を連載。
これがとてもおもしろく、当時週刊文春を読むときはいつも最初に開いていたことを憶えている。
高島氏は現在は表舞台に出てきておらず、ご存命なのかも不明。
今日紹介した著書「お言葉ですが・・・」は、アマゾンでも中古品の取り扱いのみとなっている。
せっかくの名作が廃版になるとは、と嘆いていたら、これとは別のエッセイ集、
「本が好き、悪口言うのはもっと好き」
がちくま文庫から復刊されているのを知った。
伝説のエッセイ「『支那』はわるいことばだろうか」が収載されており、第11回講談社エッセイ賞を受賞している。
あちこちに書かれたものを集めて編集されているから、書かれた年はそれぞれ異なるが、1990年代前半のものが主のはずだ。
こちらも間違いなくおもしろい。
読みやすく、ユーモアたっぷりで、しかも教養が身につくときた。
ご興味のある方は、是非。




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内山 直

作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。

「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。

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