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ブッダのメッセージを自らの行動で示したフランス人がいます。彼は仏教徒ではありませんが、いかなる宗教的観点から見ても、これが人としての崇高な行動であることは誰もが認めるものです。
2015年11月13日にパリで起こったイスラム教過激派組織による同時多発テロで、妻を失ったアントワーヌ・レリスさんは次のようなメッセージを発表しました。
金曜日の夜、君たちはかけがいのない人の命を奪った。その人はぼくの愛する妻であり、ぼくの息子の母親だった。それでも君たちがぼくの憎しみを手に入れることはないだろう。(中略)
ぼくは君たちに憎しみを贈ることはしない。君たちはそれが目的なのかもしれないが、憎悪に怒りで応じることは、君たちと同じ無知に陥ることになるから。君たちはぼくが恐怖を抱き、他人を疑いの目で見、安全のために自由を犠牲にすることを望んでいる。でも、君たちの負けだ。ぼくたちは今までどおりの暮らしを続ける。
(中略)
息子とぼくは2人になった。でも、ぼくたちは世界のどんな軍隊よりも強い。それにもう君たちに関わっている時間はないんだ。昼寝から覚める息子のところへ行かなければならない。メルヴィルはまだやっと17か月。いつもと同じようにおやつを食べ、いつもと同じように遊ぶ。この幼い子供が、幸福に、自由に暮らすことに、君たちは恥じ入るだろう。君たちはあの子の憎しみも手に入れることはできないのだから。
(後略)
ちなみに「第二の矢を受けない」というのは仏教の教えで、一般的には以下のように紹介される。この事例からも窺えるように、恨みや憎しみといった感情は、人間にとって自然ではありますが、それに打ちのめされるか否かは、人次第です。仏教徒は「第二の矢」を受けません。
自分に起こった悲劇そのものが最初の矢だとすると、第二の矢はそれによって受ける苦しみや憎しみの感情を指す。要は起こってしまった事実を平静に受け入れ、その事実から波紋のように広がっていく苦しみは受けないようにすること。不幸にして、矢に打たれた人があるとしよう。ここで、次にどうするのかに関して、2種に分かれるだろう。ひとりは、慌てふためき、第二の矢を受けてしまう人。もうひとりは、矢に打たれても痛みに耐え動揺せず、第二の矢をかわすことのできる人である。
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内山 直
作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。
「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。