生涯の大半を労働に捧げるなんて、ごく最近のトレンドにすぎない!


今日のテーマは、労働の歴史。そもそも人間は、いつから「生涯の大半を労働に捧げる」ことが普通だとされるようになったのか?
実はそれほど昔の話ではなく、産業革命以来であると考えられてる。

古代ギリシャ人にとって働くことは卑俗なことであり、自由時間を得るために仕方なくやっているだけで、そこに何ら意味を見出したりはしなかったそうだ。現に哲学者・アリストテレスは、「賃金が支払われる仕事はすべて、精神を奪い、弱める」という言葉を残している。
日本でも、縄文時代の労働時間は、なんと1日に3~4時間にすぎなかったとされている。また江戸時代には、定職につかず、食べ物がなくなると町にやってきて、日雇いの仕事を必要な分だけするというフリーターのはしりのような人が多くいたし、たとえば大工といった技術職も懐具合によって仕事をしたりしなかったり、あるいは夏の暑い間は長めに仕事を休んだりと、かなりいい加減な仕事ぶりだったそうだ。
その後明治時代に入ると政府が富国強兵策を打ち出し、多くの労働力を必要とするようになったため、今のような厳格な労働形態がとられるようになる。
今日まで続くこのフルタイム労働は、たった150年程度の歴史しかなく、しかもそもそもの始まりは「お上の都合」だったというわけだ。

現代社会において長時間働くことは、時としてまるで美徳や武勇伝のように扱われる。酒場を覗けば、仕事の多忙さを競ったり、自慢したりするかのような会話のなんと多いことか!
古代ギリシャや縄文の時代に自らの労働量を誇ったりしたら、きっと狂人扱いをされたことだろうし、その感覚のほうが僕にはまっとうに思える。
人生の大半を労働に捧げることが正しいことであり、アーリーリタイアなど怠け者のすることだという考え方は、近年、主に支配層の都合から生まれた倫理観であり、人類の歴史を考えてみても決して普遍的なものではないのだ。

昔はネットはもちろん、テレビもなかった。食べ物だって粗末で、外国の料理を楽しむことなどもちろんできなかったはずだ。しかし人生の豊かさにおいて、本当に現代人より劣っていたのかといえば、そこには疑問符がつく。
逆に、ネットもテレビもないほうが、余計な情報にさらされていない分、幸福度自体は高かった可能性も十分あると思う。
「昔はよかった」
そう言うとほとんどの人は「それはノスタルジーだ」という。本当にそう言い切ってもいいのだろうか?

歴史を紐解けば、アーリーリタイアは何ら特殊なことではないことがわかる。60歳まで、あるいは、65歳までは働くなんていうルールは、どこにも存在しない。いつの間にか僕らはそう刷り込まれていただけの話だ。
そして僕には支配層の都合に合わせて、たった一度の人生を労働に捧げる気などさらさらない。だからアーリーリタイアを決意した。
悔いは今のところない。

僕らは幸運なことに、豊かな国に生まれた。せっかくの自由を満喫することなく、固定観念の中に自分をたわめて押し込むような生き方は、ちょっともったいない気がする。
僕らはずっと自由に生きられるはずだ。
そう信じて、我ながらお節介とは思いつつ、こんなブログを書いている。





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家焼き鳥。

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内山 直

作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。

「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。

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