今回は昨日からの続きで、バートランド・ラッセルから考える、労働と幸せとの関係について。
前回書いたように、ラッセルは「怠惰への賛歌」の中で、「勤労の道徳は奴隷の道徳であるが、近代世界は、奴隷を必要としない」と語っている。
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ところが、である。
その数年前に執筆された、現在でも世界的にも有名な「幸福論(岩波書店)」ではこう語っているのだ。
「仕事は幸福な人生を築くために重要なものである」、と。
さきほど紹介した文章とはまったく逆の論説になる。ラッセルは幸福論執筆時代、なぜ「仕事は幸せな人生にとって重要」だと考えたのか。
彼の本では、「幸福な人生のためには、首尾一貫した目的はほぼ必須の条件であり、そして、それは主に仕事において具現化される」と述べられているのだが、どうしてそういう理屈になるのか、僕にはよくわからない。
幸福のために大切なのはむしろフレキシビリティであり、一貫性にこだわることは有害でさえあるのではなかろうか?
もう少し細かくラッセルの主張を紹介しよう。
まずラッセルは、建設的な仕事から得られる満足は人生が与える最大の満足のひとつであると述べている。このことに関しては、僕にもまったく異存はない。
しかし問題は、多くの人は自らが望むような、建設的、あるいは創造的な仕事にはつけていないという点であり、これはラッセル自身も、「そのような満足は、少数者の特権である」と認めている。
では大多数の、大きな達成感をもたらさない、いささか面白味に欠ける仕事につかざるをえない人にとっても、仕事が幸福のためには重要だラッセルが考える理由は何なのか?
本の中では、ふたつの理由が述べられている。
第一に、仕事は時間を潰してくれるということ。
ほとんどの人は余暇を知的に潰すことができないので、時間があると退屈してしまうから、仕事をしているほうがましである、というのだ。
第二に、仕事は成功のチャンスと野心を実現する機会を提供してくれるということ。
それがどんなにちっぽけなものであっても、いい評判を得るためであれば、仕事は耐えられるものになる、とラッセルは語っている。
どちらの理由にも、僕はまったく共感することができない。ラッセルが幸福論を書いた1930年には、ひょっとしたら庶民にとって知的な生活は難しかったのかもしれないが、現在、一般書籍のみならず、新聞、ネット、テレビ、映画など、学ぶ機会や娯楽は巷に満ち溢れている。
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仕事を辞め、ストレスを減らすことによって、自分が本来もっていた活力を取り戻すことさえできれば、興味深いテーマなどいくらでも見つかるはずだと僕は考えているし、自ら実践してきてもいる。
ふたつ目の評判に関しても、幸福学において、他人からの評価より、自分の価値観を大事にしている人の方が幸福度は高いことがわかっている。
評判のためになら、ちっぽけでつまらない仕事にも耐えられるはずだ、というラッセルの考えは、そのような仕事をしたことがない人間の妄言のように聞こえてならない。
第一、今なら仕事なんかしなくても、SNSの記事をアップしさえすれば、周囲からの評価(いいね!)のひとつやふたつ、簡単に得ることができるのは、皆さんもご承知の通りだ。
というわけで、ラッセルの意見は多少分裂気味だ。僕個人の意見を言えば、仕事に対する論説としては、「怠惰への賛歌」へのものが好きで、「幸福論」のそれは支持しない。
ラッセルの「幸福論」を名著と認めるのにやぶさかではないが、そこだけはちょっと残念に感じている。
幸せと労働について考えてみたい人には、自著、「幸せの確率」、「4週間で幸せになる方法」のほうがむしろお薦めだ、と相変わらず品のない宣伝したところで、ラッセルについてはお終い。
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地場野菜売り場で発見したレンコン。