この心の中に発生するいろいろな考えと見解は、自分で作っているものではなく、それゆえ自分のものでもない。前項ではそう記しましたけれども、実際に考えが生じてくる瞬間に、本当はどうなっているのかをこまやかに観察してみない限りは、なかなか納得しがたい真実であるのは確かでしょう。
(中略)
私たちにとって、優しくて気配りもできると、大変に良い印象を与えている、Aさんという知人がいたと仮定します。そして私たちの家族や友人といった身近な存在がもしも、「Aさんって、良い恰好したいだけの嫌な人だよね」と批判をして、同意を求めてきたとしましょう。
すると、ほとんどの場合、Aさんの弁護をしたくなる思考と見解が、心の中に反射的に湧きあがってくるのではないでしょうか。(中略)
その場合、その見解は私の見解と言えるのでしょうか? なにぶんにも、これから、「私なる者」が、「私の意志により」、そのような見解を作って、相手の意見を訂正する発言をしよう、と計画する暇などは、まったくもって金輪際、なかったはずなのですからねぇ。
つまり、何をどう考えるかについて、脳の中の意識の座が介在する余地はまったくないままに、脳の中で思考を司る領野が先に処理して自動生成した見解を、意識の座は事後的に受信しているだけなのです。
(中略)
であれば、相手の言に対して「不快」を感じているのは「私」の選択ではなく、扁桃体の自動的な振る舞いにすぎません。相手がいい終わりもしないうちに、「いや、でもAさんにも良いところがあるんだよ」と言いたくなるのも「私」の選択ではなく、Aさんについての知識や体験や好悪が原因となり、Aさんへの悪口を聞くことが条件となって、原因と条件がより合って、自動発生しているだけ。
マインドフルでないと、それらの原因と条件による自動的発生にすぎないものを、「私の作った、それゆえ私の大切な考え」と勘違いしてしまうので、手放せなくなるのです。
十分な集中力と、平静さと観察力とを鍛えながら、己の思考・見解が自動生成するありさまに、気づきを向け観察してみること。そうするなら、この刺激も考えも、脳の各所で自動生成して送信されてくるにすぎず、私の作品でも私のものでもないから、ドウデモイイヤー、と力を抜いてスルーできるようになるでしょう。
かくして、あらゆる見解は力を失うのです。
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内山 直
作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。
「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。