6月8日(木) 2日目 前編


坐禅合宿、2日目。禅道場の朝は早く、起床は5時。
開板(かいはん) を独特のリズムで打ち鳴らすのが起床の合図だ。この音は1分くらい続くので、鳴っている間にしっかりと目を覚ましておいて、鳴り終わった瞬間に体を起こし、布団を畳み始めるのが決まりとのこと。
緊張のせいで夜中に何度も目を覚ましていたくらいなので、僕も問題なく起床。全員が一斉に体を起こす様はなかなか美しい。布団を押し入れにしまい、1階に下りて身支度をしてから朝の簡単な清掃に参加。その後、5時25分までに禅堂に入り、5時半きっかりに最初の座禅が始まる。
流れは昨日の夜と一緒で、最初の45分は全員で静坐(座禅)。5分休憩の後、会員は参禅(公案)を始め、非会員で公案を授かれない僕は引き続き静座。
ここで僕の他にもうひとり、非会員のIさんが加わった。2日目から4日目の午前まで、2日半だけ参加するとのこと。新到者の仲間が増えて心強い。
肝心の座禅では、まだまだ緊張が抜けずうまく呼吸に集中できないが、これは少しずつ場慣れしていくしかないのだろう。それでも昨夜よりずっとマシではある。
人間禅の座禅法は数息観と呼ばれ、呼吸に合わせ、数をひとつ、ふたつと、百まで数えていく。雑念が入れば一からやり直しだが、厳密にやると初心者はさっぱり数字が進まず、すぐに嫌になってしまうので、どの程度の雑念まで許容するかは各自、修行の進捗度合いによって決めていいとのこと。教条主義が過ぎない点に好感がもてる。
道場が人里離れた山間にあるだけあって、うぐいすがきれいに鳴いていて、音色が美しい。しかし静坐中、これを美しいと感じ入ってはいけないらしい。
二の念をつがず。うぐいすの鳴き声が音として聞こえるのはいいが、そこから思考を膨らませず、「聞こえた」で終えてすぐに意識を呼吸、そして数字に戻すのが重要とのこと。
これは思考についても同じ。座禅を組んでいると繰り返し雑念が浮かんでくるが、そこに乗っからず、脳内を漂わせて消えるのを待つ。そうすれば徐々に雑念も浮かばなくなる……らしいのだが、これがなかなか難しい。

数息観について、せっかくだから芳賀幸四郎著「禅入門(タチバナ教養文庫)」より解説。

P38~
呼吸を一人前の大人が、ほかに何もしないで座って、これを仕事にかぞえるのであるから、数息観というものは原理的には、少しもむずかしいことではないはずである。しかし、実際にやってみると、これにまさる難中の難はないことに気がつくであろう。「なんのこれしきのこと、断じて切れ目なく百までかぞえてみせる」と、大いに意気を盛んにして数息観に着手するが、そしてぜひ、その意気込みでなければならないが、「ヒトーツ」は、どうやら数えたとしても、「フターツ」にかかると、もう雑念が起こってくる。
(中略)
それでは、数息以外の雑念のはびこりを防ぐにはどうしたらよいのか、これが問題である。それについて古人は「雑念を相手にするな」、「二念をつぐな」と教えている。雑念が起こったら雑草を引き抜くように、その雑念を取りはらえばよいと思うだろうが、そうすることは、いわば雑念を相手に相撲をとることで、それではかえって雑念をはびこらすだけで、数息そのものがお留守になってしまう。たとえば何か物音がしたとする。静坐していたとて感覚は正常なのだから、その音は当然聞こえる。だこの場合、大切なことは、聞こえたら聞こえたままにして「今の音は何の音だろう」、「どこから聞こえたのだろう」などという思慮や分別へ、それを発展させないことである。聞こえたら聞こえたままにして、第二念にまで発達したら発達したままにして、相変わらず数息をつづけると、それらの感覚や懸念は、そのままでスーッと立消えになってしまう。雑念の種は芽をふかず、根をおろさずに、したがって数息観はあやうく切れかけながらも、切れずに続いていく。「二念をつがないこと」、これが数息観の秘訣である。


興味のある方はいくつくらいまで数えられるか、雑念はどのくらい浮かぶのか、二念をつがない手法はどの程度の難易度なのか、ぜひ試してみてほしい。極端にゆっくり呼吸をしない限り、10分前後で100まで到達するはずだ。

さて、朝イチの静坐、参禅の後に続くのは……なんと、ラジオ体操とのこと。
そう聞いて僕はコケそうになったが、座っている時間が長いこと、高齢の会員が多いことを考えると、なるほど、軽い運動を入れるのは合理的アイディアといえる。T会長が禅堂に年季の入ったポータブル・CDプレイヤーを持ってきて、準備完了。
ラジオ体操はふたりの老師も参加して行われた。印象的だったのは、会員はもちろん、老師たちもみな「本気」で体操に取り組んでいること。競うように体をまわし、高く飛ぶ。
集中の合宿。しかし集中するのは座禅だけではなく、すべての工程と聞いていたから、なるほど、ラジオ体操だって惰性で行ってはいけないのだろう。
よく工事現場などでみかける「面倒くさいけど、やる決まりなんだよな」というノリのダラダラとしたラジオ体操とは真反対の、実にきびきびした動き。参加者全員が全霊を込めてラジオ体操をする姿はなかなかに壮観で(だってそんな光景、見たことないもの!)、若い僕も負けじと気合が入る。

ラジオ体操が終わると7時。すぐに7時半の朝食に向けて準備が始まる。
僕は勝手がわからず、うろうろしながら仕事を探し、運搬のお手伝いを少しだけ。新到者は客みたいなものだから、作務の時間以外は休んでいていいと言われるのだが、僕より年配者が忙しく動いている中、くつろいでいるのも気が引ける。
そして、いざ朝食。1日目の昨日は夕食後に開会だったため、合宿で初めての食事ということになる。
前日、家を出たのが夕方の5時。食事はその前にすませたから、すでに15時間たっている計算になる。緊張で空腹を感じる余裕もなかったが、もうすぐ食事にありつけるとわかると急に腹が減ってくるから不思議だ。
食事も修行の一環。質素な精進料理を供されると聞いていたが、予想通りの内容だった。ご飯、みそ汁、たくあん、肉っけのない小鉢がひとつのみ。とはいえ、会員の方々が時には自分の静坐の時間を削りながら、忙しく食事の準備する様子を見ているので、内容に不満どころか、むしろ大変ありがたい。
食事会場も禅堂。老師を上座において、コの字型に配置されたテーブルの前に並んで正座する。すぐに給仕係が一品ずつ運んでくるので、一礼して感謝の意を示しながら受け取るのだが、自分の目の前に給仕が来てから手を合わせるとタイミングが遅くなるので、隣の人が受け取る少し前に手を合わせて待機し、自分の前に給仕が来たらさっと受け取る必要がある。受けとったお椀を机においたら、もう一度一礼。お椀が運ばれるたびにこれを繰り返す。
慣れればどうということはないのだが、最初はうまくタイミングがつかめず緊張した。受け取る前の一礼は忘れようがなくとも、音を立てず、かつ素早くお椀をテーブルに置くとそこでほっとしてしまい、2回目の一礼をうっかり忘れて注意をうけることもあった。
さて、配膳が終わったら「いただきます!」とはならず、ここで「食前の文」なるものの暗唱が始まる。

ひと~つ、百丈和尚の曰く、“一日 作さざれば 一日食わず” と。我れ今恥ずること無くして此の箸を採り得るや?

いわゆる「働かざるもの食うべからず」である。ここで修行者たちはみな、自分は食事に値する仕事をしているか自問するのだ。いいなあ、これ。家に帰ってもやろうかな。あ、でも僕、FIREしたんだった。
このような文句が全部で5つあるからそれなりの長さなのだが、会員の皆様は諳んじている様子。そのような環境で生活したことがない僕は、ただただ感心する。ちなみに僕とIさんは、あらかじめ文が記されたコピーを頂いており、それを朗読。
合唱後、老師がみそ汁を一口すするのを合図に修行者たちも食べ始める。なぜすするのが合図かというと、みな、身じろぎすることなく正面方向を見ているので、音がしないとわからないようだ。僕も心中で「いただきます」と呟き箸を手に取る。
まずはお米。久々の食事をしっかり味わいたくて、目を閉じてゆっくりと噛む。心の中で「味に集中、味に集中」と唱えながら、米の甘みをしっかり堪能するよう努めた。数十秒の後、米を飲み込んだ僕がゆっくり目を開けると……。
なんと皆、すさまじい勢いで食事をかきこんでいるではないか。僕のような食べ方をしている人は誰もいない。普段からゆっくり、しっかり味わって食べるのがマナーと考えている身からすれば、まるで早食い競争のようなスピードだ。
この調子で僕だけゆっくり食べ続けた場合、皆が食べ終わって箸を置き、ふたたび正面を向いてじっと座っている中、僕の咀嚼音だけが禅堂に響くことになるのだろうか? いや、そうに違いない。
ここで僕も慌てて食べる速度を上げる。ただでさえ食べるのが遅い僕が、おかず→ご飯→みそ汁といった、いわゆる「三角食べ」をしていては遅れを取り戻せそうにないので、一皿ずつ順番に平らげていこう、と作戦を定める。そうそう、沢庵は一切れ残しておくように言われたんだった。うっかり食べてしまわないよう、細心の注意を払う(大げさな、と思うかもしれないが、油断していると本当に食べてしまいそうになるのだ)。
数分後に僕も食事終了。会員の皆さんがすでに箸をおいている中、もうひとりの新到者であるIさんが横で必死に咀嚼しているのを気配で感じる。やった、勝った! と意味不明の達成感に浸っていると、さぞかし呆けた顔をしていたのだろう、食事も取り仕切っている新潟のT会長から注意をうけた。
「内山さん、集中を続けて。いかなるときも集中を続けるのが合宿の目的なので、皆が食べ終わるのを待っている間も気を抜かないでください」
そう聞いて見渡してみると、確かにすでに食べ終わった会員の誰一人として真剣な表情を崩していない。
「集中して食べればこのくらいの時間ですむはずです。それと、急ぐあまり食器の音を立てたりしないよう注意してください」
なるほど、全神経を集中し音を立てず美しい所作で、かつ、さっさと食べるのね。これも修行也、で了解! でも食の喜びは半減するし、なにより消化に悪そう!
その後、再び給仕係が回ってくるので、食べ物のときと同じ作法でご飯が入っていたお椀にお茶を注いでもらう。
ここで一切れ残しておいた「たくあん」の出番となる。たくあんを箸でつまんで、茶碗内に残った米のぬかるみを丁寧に洗い落とすのだ。終わったらお茶を副食の椀にうつし、それもたくあんで清掃。さいごにみそ汁の椀にうつして飲み干し、たくわんを食べる。
こうすれば皿はほぼきれいなので、給仕係の後片付けの仕事が減り、かつ節水になって地球にもやさしい。しかしもちろん、これも大急ぎなので緊張するし、お茶はまずくなるのだが、そこは忍っ!
全員が食べ終わったら起立し、「食畢(じきひつ)の偈」を合唱。これも皆さん、もちろん諳んじてらっしゃるが、僕とIさんはコピーを朗読。その後、老師が退席するのを合掌しながら見送り、老師が部屋を出たらT会長の合図とともに各自が素早く自分の食器を片づける。
これで食事終了。食事ですらこれだけ緊張するのでは先が思いやられるが、それでも回数を追うごとに慣れ、楽になっていくはず。
とにかく工程が一巡するまではがんばれ、と自分を鼓舞する。

この後、8時半の作務まで休憩。とはいえ歯を磨いたり、作務用の作業着に着替えたりしていると、くつろぐ時間はあまりない。
8時半になると、起床時と同じような開板の音が響き渡り、それが鳴り終わる前に叉手当胸 (さしゅとうきょう;胸の上に右手を上にして両掌を重ね、両手の親指を他の指から離し合わせるポーズ)して玄関先に集合。
僕に与えられた仕事は草むしり。雑草の見事な生えっぷりにしばし呆然とする。
「実は私、若い頃からずっとマンション暮らしで庭仕事は不慣れでして、どの程度戦力になれるか……」
と頭を掻きながらT会長に告げると、
「いいんですよ。作務は修行の一環なので、1時間半、集中してやり抜いてくれればいいんです。作業がどのくらい進むか、終わるか終わらないかはあまり問題ではありません」
なるほど、別に修行の名を借りて只働きさせようっていう魂胆ではないのね、と納得。しかし不思議なことに、結果を出す必要はないと言われると、逆にやる気がでてきたりもする。どうせ、できる範囲でしかできないんだ。ならばそのできる範囲を目一杯広げてみせようではないか!
さて、この作務で僕がまず驚いたのは、ふたりの老師が率先して作業にあたっていること。面倒な作業は下々のものに任せ、偉い人たちは自室に残るか、楽な仕事をあてがわれたりするのと思っていたのだが、70歳台とおぼしき老師たちが自ら庭に出て脚立に上り、余計な枝をばっさばっさと切り落としていく。

image1.jpeg(作務開始前の実際の写真)

さらにこの時、G老師(新潟を所轄し、昨日の道号授与式で女性を叱咤激励していた方)の姿が強く僕の目を引いた。というのも、他の会員が皆、一般的な「作業着」を着用している中、G老師が着ているのはどこからどう見ても「パジャマ」なのだ。
部屋着にもつかえるようにと控えめにデザインされた、今時のものではない。白地に、薄い青のチェック柄、ボタンで前止めという、中高年の方々が一般的に着るタイプのザ・パジャマだ。
「老師、それパジャマじゃないですか」
などとツッコミを入れる会員は、もちろんいない。皆すでに集中して割り振られた作業に当たっている。僕も余計なことは考えず、草むしりに励まなければ、と腰を落とした。
しかし……である。やはり、つい目が行ってしまう。パジャマ姿で禿頭に手拭いを巻いたR老師は、風景から完全に浮き立って見えるのだ。ちなみに老師の風貌は、お笑いコンビ・バイきんぐの小峠をイメージしてもらえばいい。顔が特に似ているわけではないのだが、小柄で坊主頭、さらに口が悪いので雰囲気が似てくる。つまり、小峠がパジャマ姿で脚立に乗っている姿を想像してもらえば、そう遠くはない。
個人宅なら何を着ようともちろん勝手だが、厳粛なる合宿の場で、しかもトップがこの姿というのは、なかなかに強烈な印象を与えるであろうことがご理解いただけるだろうか。
しかし、ここで僕が老師の姿を滑稽に思ったかというと、そうではない。むしろ逆で、深く感銘をうけていた。
経緯は容易に想像がつく。長年使ったパジャマ。穴が開いたか、あるいはあまりにくたびれたため、新しいパジャマを買ったのだろう。その際、捨てるのではなく、
「まだ着られるのにもったいない。このパジャマ、作務にちょうどいいじゃないか」
と考えたに違いない。
高級な作業着を着ようが、パジャマで作業にあたろうが、それで修行者として質が変わるわけではないし、作務の進み具合だって一緒だ。服装なんて、安全で、できれば汗を吸ってくれれば後はどうでもいいはず。逆に、よほどの信念や自信がなければ、ここまで服装に無頓着にはなり切れないのではなかろうか。
もしG老師が、「老師たるもの、下々のものより格上の作業着でなければ」などと考えるとしたら、そちらのほうがよほどがっかりだ。
額に汗し、息を切らしながら切り落とされた枝を束ねて運ぶパジャマ姿の老師。偉人とはえてしてこのような姿なのではあるまいか? と感じ入る。
それにしてもG老師は普段家で寝る時は、和装ではなくパジャマなんだなあ、としみじみ。この辺が在家仏教のおもしろいところ、という気がしなくもない。

閑話休題。8時半に始まった作務は1時間半後の10時に予定通り終了。
運動量としては大したことがないが、暑さのためかかなり疲れた。慣れない屈む姿勢が続いたので、腰が少し痛み、ふくらはぎが張る。
ここで、T会長の声が聞こえた。
「静座は予定通り10時半から始めますが、休憩室にお茶を準備していますので、その前に少しお休みください。みなさん、お疲れさまでした」
よし、休める時は休んでおこう。休憩室に戻ると、まずは汗だくの作業着から座禅用の服に着替え、洗面所で顔を洗う。その後、遠慮なくお茶を頂いていいものか、判断しかねながらうろついていると、T会長から、
「内山さんもぜひお茶を飲んでいってください」
と声がかかる。では、失礼します。
8畳ほどの休憩室に入ると、すでに数人がペットボトルに入った冷たい緑茶を、紙コップに注いで飲んでいた。そして並べられた数々のお菓子。県外の支部の会員たちが、それぞれ土地の名産品を土産にもってきてくれたらしい。
僕は北海道の六花亭、マルセイバターケーキの「くるみ」を頂く。札幌からの参加者から、最近販売が開始されたばかりの新製品と教えてもらう。
うん、うまい! 労働に汗した後の甘味はたまらん。我れ今恥ずること無くして此の菓子を採り得るや? イエス、アイ・キャン!

お菓子を頬張りながら、他県から来た会員の方々と言葉を交わす。促されたため自己紹介し、参加に至った経緯を説明すると、皆一様に驚いた表情を浮かべる。
「えっ? 道場に2回来ただけなの? それでいきなり今回の『特別』摂心会に参加したの?」
皆の反応に、僕のほうが驚きながら、
「でもチラシには、『お気軽にご参加ください』って書いてあったんですよ」
と言うと、これまた皆一様に苦笑い。(真に受ける奴がいるか?)という感じで目配せをし合う。
相当きつい5日間になるのでは、という予感が確信に変わったのがこの瞬間だった。やはりこの挑戦は端から無謀なのだ!
しかし皆の口ぶりに僕があせるかというとそうでもなく、逆に「よし、やってやるぞ」と意気が上がった。大体において天邪鬼な性格なのだ。ちなみにこのチラシの文言は、今後もネタとして使わせてもらうことになる(会員には百発百中でウケた)。
お茶を飲み終え廊下に出ると、張り出されているスケジュール表を確認するNさんと出くわした。Nさんは新潟の会員で、おそらく70歳代。新潟からの合宿参加者の中では最年長と思われる。大柄で、明石家さんまの物まねをする「ほいけんた」っぽい。Nさんの場合もG老師の小峠同様、決して顔がそっくりというわけではないのだが、愛嬌のある笑顔が似た雰囲気を醸し出している。
T会長のみならず、中心になって取り仕切る新潟勢は皆さん雑務が多く、なかなか休憩どころはないようだ。
「お忙しそうですね」と声を上げると、Nさんはニッと笑って言う。
「今回は他県からの参加者が多いから、いつもよりちょっと慌ただしいね。僕なんて、家で料理したことなんかないのよ。まさかこの年で、味噌汁の作り方を覚えようとは……」
とほほ、という感じで笑う。「でもこれも、全部修行だからね」
最後にそうつけ加えたのは、新到者である僕に対する配慮だろうか。
Nさんを含め、合宿に参加された皆さんは本当に柔和で優しかった。そしてご高齢の方がほとんどであるにも関わらず、暑さの中、実によく働く。
皆さん道号で呼び合っているから、すでに悟っていることになる。その内面をうかがい知ることはできないが、このような素敵な老い方ができるなら、僕も人間禅に入会して修行に精進すべきかもと、これは合宿中に何度も感じることになった。

この後は例によって、途中5分の休憩をはさんでの座禅90分。
相変わらず雑念で集中はとぎれがちだが、少しずつ場に慣れ、落ち着いてきているように感じた。ななつ、やっつ~と呼吸の数をカウントしながら、この調子で少しずつ禅定を深めれば、合宿終了までには何かを得られるのではないか、と期待も高まる。あ、でもそういう期待も雑念なんだよな。あくまでも平常心で、忍っ! ていうか、いつのまにか数息を忘れてるし。喝っ!
そんな中、突然、隣で座禅を組んでいた新到者、Iさんの鼻から音が漏れ始めたのに気づいた。吸うときか吐くときかはわからないが、スピー、スピーという甲高い高い音がリズミカルに聞こえてくる。
となりの修行者の鼻音を、これも音として聞くのはいいのだが、そこから思考を始める、つまり二念を継いではいけない。そうわかってはいるのだが、人と一緒に座禅を組む経験がなかった僕は、つい気になって注意を向けてしまう。Iさん自身も「まずい」と思ったのだろう、何とか音を止めようと呼吸の強さを調整しているらしく、最初はリズミカルだった「スピー音」が不規則なテンポに変わっていく。
スピー、まずい、鼻から音がするぞ、スピー、なんとか止めなきゃ、呼吸の勢いを速めて……スピッ、だめだ、止まらない、スピッスピッ、ええい、なら逆に思いっきりゆっくり鼻から息を吐き出せば……スーーピーーー、ダメだコリャ。
というのは完全に僕の妄想にすぎないが、聞こえてくる呼吸音の乱れからIさんが試行錯誤する様子、ついでに心の動揺が伝わってくる気がすした。
そしてそこに、ウグイスの美しい鳴き声がかぶさる。「ホー、ホケキョ」「キョ・キョ・キョ・キョー」。
すると、最初はまったく別の音として認識されたIさんの鼻音とウグイスの音色が、徐々に僕の頭の中で重なり、コラボの様相を呈してきた。
ホーホケキョ、スピー、キョキョッキョッ、ピー、ホーホケキョ、キョ……スピーケキョ。
合奏のニュアンスが文章で通じにくいのがつくづく残念だが、これがどうして、なかなかに美しい調べなのだ。音やリズムが絡み合い、掛け合いのようになったりもする。
そんな風に感じられるのは座禅によって、(まだまだ下手な僕であっても)多少は神経がとぎすまされていたからかもしれない。なんにせよ隣と背後から聞こえるデュオがあまりに見事で、笑いそうになってしまう。
いや、正直に言おう。心中ではしばし笑った。音は漏れないよう必死に堪えたけど。
しかし先ほども書いたように、禅修行においてはこれでは全然ダメなのである。完全に音と自分の感情に乗っかってしまい、二念どころか三念、四念、いやはや、何念までいったやら。
やがて I さんの鼻音は収まったが(どうやって解決したんだろう?)、僕はそのまま集中できず。自己嫌悪に陥ったり、かと思えば、先ほどのコラボの音色が再び蘇ってきて、またおかしさがこみ上げてきたりで、数息観どころではなかった。
まあ、いいや。次、がんばろう! まだまだ先は長い!

午後0時半から予定通りに昼食。それに先立っての合唱や作法、進行は朝食と同じだが、おかずは昼のほうが少し多かった気がする。後片付けを手伝い、午後1時前には終了。ここからは休憩時間になる。
次の予定は……と廊下に張り出されたスケジュール表に目をやると、午後の作務は2時半スタートと記されている。なら1時間半も空くではないか。
この昼食後の時間帯が、合宿期間中、唯一まとまった時間がとれる休憩となるようだ。もっともそれが丸々休憩になるのは僕のような新到者や、他県から参加した会員のうちの一部に限られ、多くの会員は洗濯、皿洗いといった作務以外の雑務が割り振られるのだが。
何はともあれ、僕には貴重な休憩だ。昨夜、緊張であまり眠れなかったので、できればここで昼寝をしておきたい。昼寝は僕の日常では完全に習慣化しており、これがあるとないとでは午後のパフォーマンスが著しく異なるのだ。
T会長の姿が見当たらなかったため、休憩室で何やら作業をしていたNさんに「禅堂に座布団を敷いて昼寝をしていいか」と恐る恐る尋ねると、例のなんとも愛嬌のある笑顔で「どうぞ、どうぞ」と言ってくれる。
2階に上がるとすでに横になっている老会員の姿がちらほら。皆さん、動きが早い!
僕も座布団を4枚、縦に並べてゴロリ。疲れと寝不足もあって、あっという間に眠りにおちる。夜よりしっかり眠れたかもしれない。起きたときは疲れがとれ、力がみなぎっているのを感じた。
ほとんど休む間もない合宿かと思いきや、昼食後はしっかり休めて、さらに昼寝までできるとは! これなら夜の睡眠時間が短くても乗り切れるはず、と一気に気持ちが楽になった。
しかし実際のところ、昼寝をする余裕があるのは合宿2日目のこの日だけであることを、その時の僕は知る由もなかった……。

長くなったので、合宿2日目の続きは明日。

シリーズ1回目からお読みになりたい方はこちらから。
臨済宗の道場での座禅合宿に参加してきた。



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内山 直

作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。

「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。

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