長い引用を最後まで読んでいただき感謝。しかしここで「なるほど」と膝を打ったという人は少ないのではなかろうか。(前略)
いかにマインドフルネスを洗練させてみましても、心の中にポコポコ生じてくる思考を観察すれば観察するほど、①まず一瞬先に思考が生じ、②ほんの一瞬遅れないし、もっとも早くて同時にそれに気づく、という、決して先回りできない順番でしか、気づけないことが分かるはずです。
マインドフルネスと集中力が高まれば高まるほど、思考が生じ始めるズバリその瞬間に立ち会う速度で気づけるようになりますが、そうなってなおさら分かるのは、思考に先回りすることはできない、ということなのです。
つまり、私たちの意識の座が、脳の社長様のごとく威張っていて、「自分が考えている」とか「自分が身体を動かしている」とか思い込んでいるのは、「勘違いのところもある」のではなくて100パーセント、徹頭徹尾、勘違いなのですよ。
意識の座にできることは、調べれば調べるほど、なーんにも、ない。笑っちゃうくらい、なんにも、ないのです。完全に空っぽ、清々しい空無。快・不快は扁桃体が先行して勝手に決めてしまい、思考はそれ用の脳領野が自動生成し、身体は運動野などなどが連帯して勝手に動かし、意識はそれらのデータを事後的に与えられ、受信しているだけなのです。
本当の本当には、意識の領野には、他の領野からどんなデータが送信されてきているのかを明瞭に観察し認識することしか――そのたった一つのことしかできないのです。
あえてもう一つできることがあるとするなら、意識の座がやっているのではない快・不快や思考や運動について、「これは私がやっている」「これは私の大切なものだ」と錯覚・勘違いする能力があるとは、申せましょう。
つまり、なんと、意識の座ができることは、①客観的観察、もしくは、②「私がやっている」と勘違いすることしか、なさそうです。通常の脳では、ほとんど②しか働いておらず、それが、「私がやっている」「私という実体がここにいる」という勘違いを生成しています。いえ、ただし、厳密にはそうした勘違いすら実は、思考の領域がおこなっていると思われ、突きつめて自己観察をしてみるなら意識の根本的作用は①客観的に、ありありと明晰に気づいていること、たったそれだけ。限りなくクリアで、澄んでいるのです。
明晰な意識によってどの思考を調べても、どこか川の上流から流れてくるかのごとく自動生成して与えられるだけだと気づき続けるなら、「私がやっている」という錯覚は弱体化してゆきます。調べれば調べるほど、例外なく、つまり「ほとんど」ではなく、「すべて」、勝手に自動生成していることが見えるからこそ、「私」が存在する、という錯覚を崩せるのです。
ええ、私は、いない。
明日はこのシリーズ最終回の予定。「自我のおもな進化上の役割は印象操作機関になることだといっていい」
スポンサーリンク
内山 直
作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。
「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。