今週取り上げているのは、小池龍之介編訳「超訳 ブッダの言葉(ディスカバートゥウェンティワン)」。
リンク
今日は「自由になる」から1本。
“知識から自由になる
内面を見つめる力や集中力や落ち着きといった能力を高めるトレーニングをするかわりに知識を増やそうとするのは、愚か者の証。
哲学・政治学・経済学・心理学・文学・さまざまな言語なんかの知識をむやみに増やすことによって、記憶のメインメモリーは不必要な情報のノイズで埋め尽くされ、頭が混乱するだけ。
「せっかく学んだのだから他人にひけらかしたいよー」とか「せっかく学んだのだからこの知識を使ってみたいよー」などと、それらの知識への執着が生じるがために、知らず知らずのうちに知識に支配される。
その知識のフィルターと通してしか物事を感じることができなくなり、いつの間にか不幸になってしまう。
頭を混濁させる小ざかしい知識のフィルターを離れて、ものごとをありのままに感じるように。“
これも前回同様、全面的に支持することが難しい。というのも知識を増やすこと、特に若い時分にそうすることは、人生を豊かにする上でかなり重要なことだと僕は思っているからだ。
いくら内面を見つめる力がついたって、ある程度の知識がなければ政治も経済も理解することができない。世の中が世捨て人だらけでは、それは困るというものだ。
ただこれも、字面通り厳格に解釈せず、「知識に走りすぎることに対する警告」とマイルドにとらえれば合点がいく。
特に現代は、新聞やテレビといった従来のメディアだけでなく、ネットやSNSで過剰なまでに情報が行き交っている。
優秀な人のツイッターをフォローして、受け売りでウンチクを開帳すれば、それなりに「出来る奴」っぽくみえるかもしれないが、多少物のわかる人から見ればまったくバカみたいな話だ。
むしろ簡単に情報を得られる時代だからこそ、「智慧」が求められる。
知見どのように処理して、自分自身、そして社会の進歩のために貢献できるか。
それには引用の最初にある通り、「内面を見つめる力や集中力や落ち着きといった能力を高めるトレーニング」が重要になってくるだろう。
僕自身、若い頃は医師として働くかたわら、政治、経済にも関心をもち、どのようなテーマであってもそれなりに自説を述べられるだけの知識を蓄えるよう努力していた。
これには学生時代にイギリスに留学した経験も大きい。当時、欧米では自分の意見を述べられない人間は相手にされなかったし、今だってそう変わりはないはずだ。
でも、今は相当たるんでいる。
日本の主要政党名を言えといわれても、ひとつくらいは間違えてしまうかもしれない。
若い頃の僕なら考えられないようなテイタラクだ。
でも、それでいいと僕は思っている。政党名だって、情勢が今より緊迫して本当に知る必要ができたときには、しっかりと把握することだろう。
立派な意見を言うことを主たる目的にして、常に知識の備えをしておくなんて、今の僕にとっては時間と労力の無駄でしかない。
今の時代は逆に、いかに情報を遮断するかの方が大切であるように感じている。
ランキングに参加してます。ぜひ一票を。
更新の励みになります!
↓
にほんブログ村