今日は、岡本太郎(1911年- 1996年)。
「芸術は爆発だ!」の、あのお方である。幸せに関する言葉も、これと感じが似ている。
“ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。ぼくは幸福という言葉は大嫌いだ。ぼくはその代りに「歓喜」という言葉を使う。“
「しあわせ」という言葉は、確かに「歓喜」に比べたらニブく聞こえる。
でも、もし「幸せがニブイ人間のもの」と考えるのなら、「歓喜を求める生き方は、スルドくはあるが不幸な人間をつくる」ということにないだろうか?と逆に考えてみる。
「歓喜」は地道な作業から得ることはできない。そこにはなにか大きな達成感なりストーリーが必要になってくる。
たとえば大事業に成功して、歓喜の瞬間を迎えたとしよう。しかし歓喜の賞味期限は通常は短い。あっという間に霧散してしまう。そしてその後はまた、次なる歓喜を求めて動き出さなければならない。
歓喜を追い求める過程にこそ真の幸福があると僕は思うのだが、そのような地味な部分を否定してしまっている以上、次の歓喜の瞬間まではひたすら忍耐の日々が続く。
それに毎回、それまでを上回る歓喜を得るのは容易ではない。場合によっては何年もかかるし、ひょっとしたらもう2度と以前ほどの歓喜は得られないかもしれないのだ。
一方で幸福の方はたとえ大事業に成功しなくても、ちょっとした気の持ちようで得ることができる。夢中になれることに溢れた生活を目指すのではなく、普段ならたいして気にも留めないようなありふれたことでも、十分に味わい尽くすよう意識すればいい。
そのような試みによって日々を張りのあるものにすると、幸福度が高まり、落ち込む頻度も少なくなることが報告されている。
もちろん、大成功したっていい。そういうときは束の間とはいえ、歓喜の瞬間を存分に味わえばいい。
でも、決してそのような強い快楽は、そう簡単には訪れない。努力の過程を楽しみ、成功を喜びながらも、それに過度に固執することなく、次の日はまた次の日のささやかな喜びを味わうやり方のほうが、人生をより快適に送れるように僕には思える。
岡本太郎からみれば僕なんかはニブイ人間の最たるものかもしれない。でも僕はニブイ奴で大いに結構、と思っている。
歓喜を追い求めるなどというシンドそうな人生は、聞いただけで疲れちゃうヨ・・・。
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