p29
強盗が増えたのは町から番所が消え、同心、岡っ引きが廃止になったからだ。だからやす(漱石の養母)は、夜半の岡っ引きの笛もとんと聞かない。かわりに何を言っているのかさっぱりわからない“巡査”があらわれた。奇妙な格好で警棒を持ち、威張っている。
「ものとりは何のこっつでごわす……」
東京警視庁が明治七年に設置された。東京の“巡査”の多くは薩摩人だった。
p29
瓦版屋の声も消えた。かわりに男衆たちは“新聞”というものを額を寄せて読み始めた。『東京日日』『横浜毎日』『郵便報知』『朝野』が出揃い、四大新聞と称された。
いやはや、なんとも激動の時代ですね。p30
「金之助(後の漱石)の寺小屋をこどにしたらよいのか、私はそっちの方はとんと……」
「もう金之助もそんな歳か。しかしおまえは何も知らねぇのか。寺小屋なんてものはとっくになくなっちまってるよ」
「えっ、どうしたんです」
「少しは世の中のことを勉強しないと。寺小屋は去年の春に皆なくなって、今、子供は小学校へ行ってるんだ」
「小学校? 何ですか、それは」
僕だってそれなりに大きな時代の変遷を目の当たりにしてきた気ではいる。P31~
半年前から昼の十二時になると、旧江戸城本丸から時刻を報せるために大砲を射つようになった。最初は、また上野の山で戦争がはじまったかと、江戸っ子は驚いた。
(中略)
「もうすぐ鉄道が通る。新橋から横浜まで四十分で行くらしい」
「その四十分、五十分が私にはわからなくて」
やすの言うとおり、それまでの時刻の言い方を一時間とか、十二時だとか定めたが、庶民は、それを理解するまで皆苦労した。十二時を告げる大砲を皇から射つようにしたのも、この新しい時間制をひろめるためだった。維新前の東京は、各寺々が朝と夕に突く鐘の音でしか時刻を知る方法がなかった。昼間はどうしたかと言うと、物売りがやって来る。その声で時刻を見た。
魚屋、野菜、水売りが来るのが昼前、飴売り、饅頭売りが来ると、八つ時で、三時という塩梅だった。日本人に時間の観念を持たせることが、新しい時代にとって必要だったのである。
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内山 直
作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。
「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。