生き抜くということ
「精一杯、人生を生き抜いてやるぞ」
僕は童話「桃太郎」の最終ページをそっと閉じると、何度目かの誓いを心に刻んだ。
幼少時、初めてこの話を聞いた時から獏たる疑問が心に存在し続けていた。なぜ桃太郎は自らの命を危険に晒してまで鬼退治に出かけたのだろう、と。僕にはとてもそんな勇気はないな、とも。
しかしある時、それまでは持っていなかった視点に行き当たった。重要であるはずなのに、物語では決して描かれないひとつの視点。それは、
「桃太郎本人は、自分の出生をどう捉えていたのだろう?」
というものだ。
知ってのとおり、桃太郎のルーツは謎に包まれている。物語中で明かされているのは、桃太郎が桃に入った状態で、川の上流からドンブラコと流れてきたのを、たまたま洗濯をしていたおばあさんがみつけ、拾ったこと。そして、おばあさんが桃を「中の本体を傷つけることなく」真っ二つにしたという奇跡。
村人は親切で、しかしそこには恐ろしい鬼が跋扈していた、と読者に呈示されているのはそこまでだ。
でも少し想像力を働かせてみてほしい。桃太郎は拾われることなくそのまま桃の中で息絶えたかもしれない。あるいは獣によって拾われ、エサになったかもしれない。いや、むしろそのような悲劇的な可能性のほうがはるかに高かったのだ。
深く思い悩む桃太郎。
「僕の遺伝的ルーツはどこにあるのだろう?」
「なぜ運命は僕をこの村に遣わせたのだろう?」
桃太郎は確固たるアイディンティティを築くことができぬまま、例えるならパズルの肝心なピースを得られないような心理状態で齢を重ねていく。無謀ともいえる鬼退治に出向いたのは、このような葛藤の末、何かを打破したい、そしてせめて自分を育ててくれた老夫婦や村人の役に立ちたいという強い衝動に突き動かされたからではないだろうか?
「偉業には相応の理由があるのだよ」
どこかで聞きかじった、偉人の名言。
そこで僕は考えた。桃太郎は世にも奇妙な、不思議な状態で成長したからこそ、あのような偉業を達成できたのか?
平凡な環境で育った僕のような人間にはとてもかなわぬ夢なのか?
「ちょっと待てよ」
脳裏に浮かぶ新たなる疑問。
「僕の存在だって根源的な意味では桃太郎と同じなんじゃないのか?」
ひとりの人間が存在するのは奇跡だと聞いたことがある。僕が僕自身であるためには莫大な量のDNA配列が同一である必要があり、両親から生まれた可能性は実は数億分の一かそれ以下だというのだ。
僕が今生きているのは、桃太郎が生を受けたのと同様に決して「当然のこと」ではないことになる。
そして僕らが生きている社会はどの程度平和なのだろう?
確かに鬼のようにデフォルメされたキャラクターには乏しい。でも悲惨な戦争はあるし、耐えがたい貧困や隔絶は溢れているし、人類が持続可能な社会を築く可能性は限りなくゼロに近い。身近な例でも、先日、暑い車内で放置された幼児が死亡したニュースが報じられたばかりだ。
そう。僕らの日常に「鬼」は溢れているのだ。
僕らには戦う理由がある。戦う相手がいる。もちろん桃太郎のように華々しい活躍はできないかもしれない。
でも精一杯闘い、懸命に生きるだけなら誰にだってできるはずだ。
だって僕らには桃太郎が感謝してやまなかった老夫婦のような存在が、そう、生み育ててくれた社会や祖国、自然、そして親がいるのだから。
「僕にどれだけのことができるかわからない。でも能力が許す範囲で、精一杯、人生を生き抜いてやるぞ」
この物語を思い出すたび、僕は両親への感謝の念を再認識しながら誓う。
そして思う。桃から生まれなくたって、強く生き抜くことはできるのだ、と。
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内山 直
作家、医師、医学博士。
1968年新潟県新潟市に生まれる。新潟大学医学部卒業、同大学院修了。
2004年に独立し自分のクリニックを立ち上げ、「行列のできる診療所」として評判を呼ぶが、その後アーリーリタイアメントを決意。
2016年2月、クリニックを後輩医師に譲りFIRE生活を開始する。
地方都市でゆるゆると生息中。
「お金、地位、美貌」で得られる幸福はたったの10%で遺伝が50%とされています。
残りの40%に目を向ければ、幸せはすぐにやってくる!をキャッチフレーズに幸福の啓蒙活動を継続中。